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ゆうびん

CHARGE(チャージ)症候群という先天的な疾病を抱えて生まれた裕(ゆう)と過ごす風景を書き連ねます。

受けとめかたの違い

冬真っ盛り。
心臓に病気もちのわが子にとっては、ちょっとした感染症にも油断できません。
というわけで、予防接種もたくさん打つこととなり、病院へ通う回数が多くなります。多い時では、1週間で3回ほど。
その予防接種は、元気な赤ちゃんと一緒に打つことが多く、妻にとって、そういう赤ちゃんに囲まれながら、大学病院で過ごすのは、なにより苦痛な様子(これは今でも)。

なぜ自分の子どもだけ、、、
どれだけ病院に来ればいいのか、、、
この先、こんな時間がいつまで続くのかな、、、
子育て、こんなはずじゃなかった、、、
いろんな思いが募り、時が過ぎても消えることなく、積み重なっていきます。

私は、どちらかと言えば、なるようにしかならん、と考えて、あまり将来を悲観していませんでした(というより、今、将来のことを考えてもしかたないのでは、という感覚)。
けれども妻は、病院や街中で出会う赤ちゃんを見て、ゆうの育ちとのズレを突きつけられ、そのたびに心に負荷がかかっていたのだと思います。

主治医であった小児科の医師に診てもらう時、
妻は、日々気づくいろんな不安(運動面での遅れや不思議な仕草、実家に預けて母と離れても平然としている・・・などなど)をぶつけます。
知的な遅れがあるのでは、自閉症なのでは、と湧きあがる不安を、医師に懸命に伝えます。

それに対して、医師からは、小さい子はまだまだ伸びるし、そんなに気にしなくていいよ、と言われるばかり。
そして、初診時は重症と感じたけど、ここまででもずいぶん伸びたよ、すごいことだよ、とも。
この一言で、妻は医師への信頼をなくしました。
「そんなに重くないから、安心して」という初めての診察の時の医師の言葉を思い出したからです。
この医師は、重症だと思っていても、そう伝えないんだ、だからこの人の言葉は信じられない、と。

私は、この医師の言葉もわかるわと感じていて、今この時点で将来を決めつけて心配するのではなく、できることをひとつずつ、との思いが強かったです。
こうした感覚のズレも、妻には負担だったのではと想像します。

また、こちらは、季節柄仕事が忙しい時期で、よく話を受けとめきれていなかったな、とも。この頃は、週ごとに状況が悪くなっていたんだ、ということを、今、手帳を見返して気づかされます。

そんな中、1歳の誕生日を無事迎え、春に向かって突き進みます。

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    (梅の花咲く公園にて。肩車でもだいぶ体が安定してきました。)

 

通い始めた療育センターでは、
まず、小児科の医師に、これまでの経過を話し、現時点でのゆうの動きを診てもらいました。そこで、今後の療育方針が話し合われ、どんなことに取り組みかが決まります。
ゆうは、まずは体の基礎をつくることに力を入れることになり、だいたい2週間に1度のペースで、理学療法士さんによるリハビリが始まりました。
次に、心理士さんによる発達のテストを受けて、その結果をもとに、どういうサポートが必要か、考えていくことになります。


なんとなく道筋が整ってきた感じはするものの、妻の様子はあまり変わらず、というより、じわじわと負の感情が増えてきているように感じられ、私もどうしたらよいのかわからぬまま、時を過ごしていきました。


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     (壁に寄りかかってはいるものの、しばらく立てるように)

 

4月に入ると、妻が日中、ゆうと二人で過ごすこと自体がしんどくなるようになり、実家で預かってもらうこともしばしば。
平日の昼間、家で一緒に体を動かしたり、絵本を読んだり、おもちゃで遊んだりするけれど、ゆうが期待通りに動いてくれることは少なく、コミュニケーションが成り立ってない感じがどうしてもつらい。
一生懸命に取り組むだけに、余計しんどくなっているようにも。
私も休日にはゆうと遊ぶものの、まあこんなものなのでは、と思っていたので、ここでも、感覚のズレが続いていました。

また、私たちふたりだけで、ゆうと向き合っていくのは、ちょっと厳しいかな、と感じていました。
いろんな人の本やネット上の闘病記などを読み漁り、どうしたらいいのか、少しでもヒントはないか、と思いめぐらしていました。
そこで、一度「ピアカウンセリング」なるものを受けてみよう、と思い立ちます。
「ピア」とは、同僚、仲間といったような、同じ立場の者、といった意味。
ここでいう「ピアカウンセリング」は、同じような病気の子どもを育ててきた方々に話を聞いてもらう、というもの。
足を運んだのは、神奈川県立こども医療センターでした。