ゆうびん

CHARGE(チャージ)症候群という先天的な疾病を抱えて生まれた裕(ゆう)と過ごす風景を書き連ねます。

音の世界の入口にて

ついに、ゆうは呼びかけると振り返るようになりました。
ただ、私の滑舌のはっきりしない呼びかけにはなかなか応えてくれず、妻のよく通る明るい声には、すばやく機敏に反応してくれます。

私たちは、人工内耳を付けた後、ゆうに繰り返し声をかけてきました。けれども、なかなか明確に「聞こえ」を感じられませんでした。
ここに来て、次から次へと音に気づくゆうの姿を目の当たりにし、その変化に驚いています。
ともすると、私たちの声かけは、ゆうに用事があるわけでもなく、ただ呼ぶだけ、聞こえているかを知りたいだけ、だったようにも思います。
ある先生に、こんなことを言われました。
「例えば、あなたたちがふだんの生活の中で、聞こえてる?って聞かれても、いちいち、聞こえてるよ!って返事しないでしょ」と。

ずっと前に、ゆうが音に気づいていたとしても、それを返事すべきもの、何か反応すべきもの、と彼が考えなければ、外見上の変化はないわけです。
彼に、「あー、なんか応えなければいかんのか」と感じさせるように、私たちが彼の意欲を引き出すことが必要なのだ、と痛感しました。

さて、ゆうがそこに気がつくと、鳩時計の「ポッポ」の鳴き声、バスのチャイム、そしてセミの音にまで、変化は表れてきました。
音に気がつくと、ゆうは音源を探して周囲を不安そうに見渡しつつ、耳に手を当て聞こえているよ、とサインを出してくれるようになりました。その時は、たいてい、人工内耳を付けている左側の耳に手を添えます。

けれども、大好きなテレビ番組「おかあさんといっしょ」を真剣に見ている時は、テレビの音量を消しても、ゆうは変わらず、一生懸命画面に食いついています。
これまでずっと視覚だけをたよりに楽しんできたテレビ、音はまだ重要な要素ではないようです。

さて、今日は、川崎大師で毎年行われている風鈴市に行ってきました。

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私は風鈴の音色を聞くと、蚊取り線香を思い出しますが、妻はほおずきの鉢を思い出すそうです。
音によって連想されるイメージは、個人の中で積み重ね、折りたたまれた経験に基づいているんでしょうね。
ゆうにも夏の音をたくさん聴かせたいと思っています。